一言主神の逃避行(その1)

               一言主神の逃避行(その1)
 
 
 
 
啓蟄が過ぎると、眠っていたはずの旅の虫が頭をもたげてきた。
そんなことで今年も花遍路にと土佐国に出かけたときのことである。
前回の打ち止めだった第30番札所善楽寺から歩き始めた。
先ずは古の地理・地名をイメージして欲しい。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
現在の高知市のあたりは古くは土佐郡(とさ)といい、善楽寺の隣にある土佐国一之宮の土佐神社(とさ)はここにあった。
土佐郡の西側は吾川郡(あがわ)で、西暦841年にそのうちの4郷を分けて高岡郡(たかおか)とされる。
高岡郡は現在の四万十町より東側の区域で、土佐市須崎市を含んでいた。
そしてこの高岡郡には鳴無神社(おとなし)が鎮座する。
さらに西側を幡多郡(はた)といい、その黒潮町入野(いりの)には加茂八幡宮(かもはちまん)が鎮座する。
 
 
これらの神社はいずれも一言主神(ひとことぬし)と深い関わりを持っており、今回の遍路は、その一言主神が大和国葛城を追われて土佐国にやって来たルートを逆に辿っていることに気がついた。
 
 

 
 
 
 
時は雄略天皇4年というから西暦でいうと460年のことになる。
天皇が供を連れて葛城山へ狩りに行ったときのこと、紅紐の付いた青摺(あおずり)の衣を身につけた集団が眼に入った。
その様は天皇一行と全く同じ恰好だったのだ。
名を問わせると、「吾は、葛城の一言主の大神なり」と答えた。
 
 
 
とここまでは『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』とも同じであるが、その後が微妙に違う。
 
 
 
古事記」では『天皇は恐れ入って弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し出した』とあり、日本書紀」では『共に狩りをして楽しんだ』とある。
そして続日本紀」では『互いに獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された』とそれぞれの表現の違いがあるのはなぜなのだろう。
ある説明には、一言主神を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかとも言われているようだが、実際ところはどれが本当なのだろうか?
 
 
 
私見は「続日本紀」に近く、『一言主神一族は、命に危険を感じて葛城の地を去った』のだと考えている。
 
次回からはその理由を探求してみようと思う。