鳴無神社(高知県須崎市)

 
     ★☆ 鳴無神社(高知県須崎市) ☆★
 
 
 
   
 
「おとなしい」を辞書で引くと「大人しい」と書く。
上古の「大人」は「てーにん(朝鮮語)」と言って部族長などの有力者を呼ぶ言葉だった。
だから本来の意味が「大人のように考え方や態度が成熟しているさま」を表し、「思慮分別のある人」のことをさしていることにうなずける。
ちなみにその反対語は「ややこしい」という言葉で、その語源も「ややこ(稚児)」からきたといい、いずれも京都が発祥らしい。

 

 
 
 
 
その「おとなしい」と音を同じくする神社が、須崎市の東方の浦内湾という内海の奥深いところにあった。
穏やかな内海には小さな巡航船の往来が子供達の通学の足になって、猫の額のような低地に肩を寄せるように集った集落の子供達を拾い上げていく。
むかし、いつのことかはわからないがとことわりながら、船長は鳴無神社の由来を話してくれた。
 
 
「半島の外海側は人も寄せ付けないほどの崖が切り立っているけんど、見てのとおり内海は大変穏やかじゃけん。
ある海の荒れた日に、一艘の船が岸に打ち上げられていたそうな。
鳴無の人たちはみんなでそれを助け、船は神社の横にある山に持ち上げて隠した」と。
 
 
 
いちばん奥くの鳴無で降船した。
すると、その参道は海に向かって延びており、まるで海から上陸したかのような様子で鳴無神社(おとなし)が鎮座していた。
その景色は、年寄りたちから語り継がれているという船長の話のとおりである。
 
 
 
社伝によれば、葛城山にいた一言主神(ひとことぬし)雄略天皇(ゆうりゃく)との間に争いがあって、一言主神は船で逃れた。
雄略天皇4年(460年)の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとされている。
祭神の一言主神は土佐国一宮の土佐神社と同じで、土佐神社はこの神社の別宮であった。
しかし創建が鎌倉時代の建長3年(1251年)のこととされるのはなぜなのだろう。
 
 
もちろん土佐国一宮と同じように、夏の終わりに志那禰祭(しなねまつり)が行われる。
本祭では漁船3隻に神輿を乗せ、供船として大漁旗をなびかせた漁船20隻を従えて船渡御が行われる。
この船渡御も、古くは一宮から鳴無神社まで神輿が渡御していたようだが、現在は内海の中だけで行われている。
 
 
鳴無の大人のはからいで救われた一言主神も、やがては葛城の地に戻ることを許されるのだが・・・