一言主神の逃避行(最終回)

 
              一言主神の逃避行(最終回)
 
 
さて、前回の続きであるが、目弱王(まよわ)の変とはいったいどんな政変だったのだろう。
 
それは安康天皇の御代に起こった事件である。
目弱王は、大草香皇子(おおくさか)と中蒂姫(なかし)との間に生まれた。
ある日のこと、安康天皇が弟の大泊瀬皇子(おおはつせ)と大草香皇子の妹(草香幡梭姫皇女 くさかのはたび)とを結婚させようと画策した。
快く承諾した大草香皇子は、その印として宝冠を献上する。
しかし、使者の根臣(ねのおみ)が冠をくすねてしまい、それを隠すために大草香皇子が婚姻を拒否したと嘘の報告をしたのだ。
怒った安康天皇は大草香皇子を殺すと、その妻である中蒂姫(なかし)を連れてこさせて皇后にしてしまった。
もちろん目弱王は連れ子として育てることとなったのである。

 

 
時が経ち、安康天皇3年8月というから目弱王は7歳になっていた。
たまたま神殿の下で遊んでいると、その上にいた天皇と母の会話が聞こえてくる。
驚いたことにその内容は、父を殺したのが天皇であったという事実だった。
まもなくすると目弱王はその恨みを晴らすために隙をうかがうようになり、とうとうそのチャンスがやって来た。
目弱王はこのときとばかりに熟睡していた天皇を刺し殺してしまった。
動揺した目弱王はどうしていいのかわからず境黒彦皇子(くろさかひこ)と相談して、とにかく葛城円大臣(かつらぎのつぶら)の宅に逃げ込んだ。
しかし、それを知った天皇の弟である大泊瀬皇子(後の雄略天皇 おおはつせ)はほっておかない。
直ちに兵を引き連れて大臣の宅を攻めたてた。
形勢が不利だとわかると大臣は、財や娘を差し出すと助命嘆願をしたが聞き入れてもらえず、目弱王とともに焼き殺されて葛城氏宗家は滅亡してしまった。
 

 
仁徳天皇の系譜                                

 
起こったことがらを簡単に言ってしまえば、
先ず安康天皇が難癖を付けて磐之媛の血筋ではない大草香皇子を抹殺する。
ところが安康天皇は思いもよらず、大草香皇子の息子の目弱王に敵討ちにあってしまった。
そこで大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は天皇の座を確保し、政治基盤を盤石なものとするために関連する者を順次抹殺していった、という事件である。
 
上の系譜を見て貰いたい。
天皇の座を手に入れるために抹殺された皇子達は、磐坂市辺押磐皇子目弱王境黒彦皇子八釣白彦皇子である。
 
ところが目弱王の変から二月が経ち、大泊瀬皇子に父の磐坂市辺押磐皇子を殺されて恐れを抱いた億計(後の仁賢天皇 おけ)と弘計顕宗天皇 をけ)は、身分を偽って播磨国に隠れ住んで難を逃れたのである。
 
                葛城一言主神社
 
             
 その後、武内宿禰を先祖とする葛城氏玉田宿禰葦田宿禰系列の氏族は順次粛正されていった。
この氏族の中には鴨族も含まれていたのだろう。
それが一言主の逃避行(その1)に書いた、雄略天皇4年の「葛城山の狩り事件」に結びつくのである。
 
雄略天皇の所業に恐れを抱いた鴨族は、億計と弘計のように都を離れて各地に散らばっていった。
先ずは土佐国へ逃げた一言主(ひとことぬし)系鴨族一派は土佐神社に祀られている。
また伊予国に逃れた一言主系鴨族一派は高鴨神社に祀られている。
一言主系鴨族は、阿遅鋤高日子根神(あぢすきたかひこね)を祖神とする。
つまり一言主神の逃避行(その2)で書いた天若日子命(あめのわかひこ)の系列なのである。
 
もう一つは山城国へ逃れた事代主命(ことしろぬし)系鴨族一派であるが、この鴨族は下鴨神社に祀られている賀茂建角身命(かものたけつぬみ)つまり八咫烏(やたがらす)の系列である。
しかし、この系列の鴨族が葛城の地を後にしたのは崇神天皇の御代というから、雄略天皇からして十世以上前のことになる。
 
そして全国に分布する鴨族の地は、このときに拡散したものばかりではないと思うが、やはりその理由として一考してみる価値はあるのではないだろうか。
今回の旅は、弘法大師に導かれたのだろうか。
たまたま遍路道の近くにある社に残されていた鴨族の逃避行の伝承、今から1500年ほど昔に起こった政権者達の栄枯盛衰を想像させる旅となった。